2009年06月16日

麩(ふ)は、グルテンを主原料とした加工食品

麩(ふ)は、グルテンを主原料とした加工食品。グルテンは、水で練った小麦粉に含まれるたんぱく質のひとつである。

モチモチした食感をもつ生麩(なまふ)と、サクサクカリカリした食感の焼き麩(やきふ)、中華料理などで使われる揚げ麩(あげふ)がある。煮物や汁物に用いられる。すき焼きなどの鍋物の具や、沖縄料理の炒め物の材料としても多く用いられている。

日本での主要産地は以下のとおり

生麩や飾り麩は京都市や金沢市
焼き麩は新潟県村上市の岩船地区、山形県、沖縄県など
揚げ麩は宮城県
中国では、江蘇省無錫は揚げ麩の産地として知られており、上海料理の煮物によく用いられている。また、麩の中に豚の挽肉などを詰めた、「麺筋塞肉」などの加工品もある。精進料理(日本・中国)、もしくは欧米では健康または宗教上の理由で肉類を食べない菜食主義者向けの、肉を模した代用食品の原料として麩が使われる。感謝祭で供される七面鳥の代用品としてトーファーキーがある。

生麩や焼き麩は、料理以外に、菓子として用いられる事があり、前者は小豆餡を包んで麩饅頭、後者は生地に着色して砂糖を練りこみ、麩菓子などの駄菓子とする。黒糖で花林糖のような風味をもたせた麩かりんとうもある。

小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り、粘りが出たところで生地を布製の袋に入れて水中で揉む。 デンプンが流出した後に残ったグルテンを蒸して生麩(もち麩)が作られる。

上記のようにして作られたグルテンに、小麦粉、ベーキングパウダー、もち米粉などを加えて練り合わせ、焙り焼きしたものが焼き麩である。

また、生麩を油で揚げると揚げ麩になる。

生麩には、ゴマ、ヨモギ、紅花などの素材を加えて、風味や色をつけたものもある。

なお、流出したデンプンを集めて乾燥させたものを正麩(しょうふ、漿麩)と呼んで糊や菓子の原料にされる。

板麩
山形県庄内町の「庄内麩」が有名であるが、板状に焼いた物。
まんじゅう麩(岩船麩)
饅頭型をした麩。新潟県村上市岩船地区が発祥地とされ、「岩船麩」として知られる。同県の下越地方で作られる。
つぶし麩
まんじゅう麩に蒸気を当てて蒸し、軟らかくなったところを円盤状に押しつぶしたもので、密度が高い。
車麩
竹輪のように、アルミの棒に麩の生地を巻いて、回転させながら直火焼きする工程を3回ほど繰り返し、層状にしたもの。沖縄料理に欠かせない。
押し麩
車麩を春巻きのように押しつぶしたもの。山形県などで作られている。
揚げ麩
団子状に丸めた生麩を、菜種油などで揚げて作る。中国無錫のものは、揚げることで気泡を作り、直径6cm程度の大きな球に膨らませてある。
油麩(あぶらふ)と呼ばれるモノは棒状にしたものである。宮城県登米地方の伝統食材。
汁物に使う時は、水もどしせずに料理に使え、適当な大きさに切って煮物に入れることによりコクが出る。汁気の少ない料理に使う時は、水戻しが必要。
飾り麩
花の形や、手まりの形などを食紅などを使って彩りよく形どったもの。京都の「京小町麩」、「花麩」、石川県の「加賀飾り麩」などが有名。
角麩
すだれを使って板状に成型し蒸し上げたもの。面には波状の模様がつく。主に名古屋市周辺で作られており、この地方ではスーパーでもよく見かけるポピュラーな食材。主な原材料はグルテンと小麦粉。
安平麩(あんぺいふ)
山口県で生産される丸型の焼き麩。原材料はグルテンと小麦粉。一見シュークリームを思わせる外見をしている。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝
ボディビルディング

中国では古くは麪筋(めんきん)と呼ばれ、宋代に書かれた『夢渓筆談』にもその名が登場する。日本では「麩」という字で麬(ふすま)を指し、後にその加工品である麪筋にもこの字が当てられた(『本朝食鑑』)。また、小麦そのものが中国大陸から伝来されたことから唐粉(からこ、殻粉)とも称した。鎌倉時代には唐粉を宮廷に貢納する供御人(唐粉供御人)がいた。「麩=ふ」としての最古の記録は南北朝時代に書かれた『嘉元記』正平7年(1352年)5月10日条に登場する「フ」の記述である(なお、同条に「フ」と併記されている「ウトム」がうどんの最古の記録とされている)。禅宗の広まりとともに精進料理や懐石料理などで麩が採用され、日本の食卓でも馴染みのものになっていった。

2009年05月30日

華族

華族(かぞく)とは、1869年から1947年まで存在した日本近代の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家[1]・維新後に諸侯とされた家16家[2]の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である「終身華族」と、子孫も華族となる「永代華族」の二つが存在していた。
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また、この後も新たな華族が加えられた。特に大寺院の門跡であった公家の子弟が還俗し、新たな華族となった26家は奈良華族と総称される。また、大久保家(大久保利通の功)・木戸家(木戸孝允の功)[3]・広沢家(広沢真臣の功)[4]は、明治天皇の特旨によって華族に列せられているが、華族令以前に華族に昇進した元勲の家系はこの3家のみである。また、歴史上天皇家に対して忠節を尽くした人物の子孫[5]もこの時代に華族となっている。

2009年04月27日

漁(りょう)

漁(りょう)とは、人間がさまざまな漁具を用いて、水産資源を捕獲する行為のことである。また、さまざまな漁具の種類、用法によって類別される漁の方法のことを漁法(ぎょほう)という。

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なお、漁をおこなう行為のうち、その労働的側面に着目する場合、漁撈といって区別するのが一般的である。また、趣味・娯楽として楽しむ漁の場合は、とくに遊漁といって区別する。
漁の歴史的起源は古く、捕獲の対象となる生物の生態にあわせて、また、時代の技術的制約のもとで、さまざまな漁具や漁法が用いられてきた。

伝統的な漁では、漁具の材料に在来のものが多く、その生産性は低かったが、漁の規模と水産資源の生態が調和し、水域の水産資源は再生産されていた。

漁の規模が大きくなると、数人で共同して漁をおこなったり、とくに近世以降は、網主が大人数を雇って漁をおこなうような例(地曳き網や敷き網など)もあらわれた。

漁船の動力化や合成繊維網の普及などによる生産性の向上、急速な人口増加、漁場の広域化などの諸因により、水産資源の枯渇化という懸念が生じている。

2009年04月10日

古楽器

古楽器(こがっき)とは、西洋音楽(クラシック音楽)において、楽曲が作曲された当時の様式をもった楽器のことを指す。英語では、early instruments(昔の楽器)、original instruments (オリジナル楽器)もしくは period instruments (当時の楽器)、 aurthentic instruments ([歴史考証から]正統的な楽器)というように、ニュアンスに応じていくつかの使い分けがされているものの、全て古楽器のことを指す。これに対して、20世紀ごろから標準的に用いられている様式の楽器を「モダン楽器」などと呼ぶことがある。なお、モダン楽器に比べて機能が低いために、モダン楽器に比べると演奏に制約が多い傾向にある。

年代的には、中世・ルネサンス期・バロック期のヨーロッパの音楽で用いられていた様式に基づく楽器を主にいう。しかし、古楽器の定義の仕方としては、20世紀初頭に大量生産方式が開始される以前に、専門の職人(個人や職人集団)によって手作りされた時期の楽器と定義することもできる。これによると、例えば上記の年代から外れるピアノの場合でも、18世紀後半から19世紀初頭に造られたフォルテピアノや、その後20世紀初頭にモダン・ピアノの規格が世界的に統一されるまでの過程で造られた、さまざまなタイプのピアノを、すべて古楽器として扱うことになる。

中世以降の東西の文化交渉の結果、民族楽器(民俗音楽の楽器)と明らかに関連性のある楽器がいくつか見られ、とりわけ中世の世俗音楽の楽器に中央アジアやアラビア半島起源のものが多い。中にはビウエラのようにその後に西洋の民族楽器として定着したものもある。ただし古楽器という概念は、あくまでクラシック音楽でのカテゴリーであって、民族音楽における伝統楽器と(たとえ重複するものがあるにせよ)同義ではない。

古い時代に製造され、当時そのままの姿で、主に博物館や古い城館、個人の蒐集家のもとに保存・伝承された楽器(オリジナル楽器)もあるが、実演奏においては、それらの楽器の構造や形状・製法・材料を、現物や音楽文献の裏づけによって忠実に再現したレプリカを用いるのが通常である。また、ヴァイオリン属の楽器やヴィオローネなどでは19世紀以降に改造された楽器を、元のかたちや状態に復元して使うこともある。このような楽器も古楽器と呼ぶ。ただし、20世紀前半に、推測や史料考証の誤りから造られたモダン・チェンバロや、弦楽器の「バッハ弓」は、古楽器およびその部品の複製とは認められない。

古楽器の研究・復元は19世紀末ころから始まり、特に1970年代ころから古楽器を用いた演奏とともに盛んとなった。古楽器を用いた演奏を中心に活動している音楽家を特に古楽派などと呼ぶが、古楽器の普及とともに、古楽器の使用範囲は拡大している。パイプオルガン演奏では、いちいち断らないことが多いものの、19世紀以降のシンフォニック・オルガンを用いずに、18世紀以前の教会オルガンを用いてバロック以前の鍵盤楽曲を演奏・録音する傾向が増えつつあり、これも古楽器演奏の一環と見做してよい。

マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

2009年03月26日

古来最初の下着

適当な大きさに作られた布を腰に巻きつけたものが古来最初の下着であったと推測される。大きく分けると2つの種類に分けられる。紐で腰に結びつけて股の下を通し、後ろで紐に通し固定するふんどし型のものと、胴回りに幾度も巻き付けてピンや細いベルトで止める腰巻き型のものである。ジャングルなどの熱帯地帯では、褌だけで快適に生活することが出来る場合が多く、この場合は下着ではなく、ズボンのように服の一部とみなすことができる。しかし、それ以外の地方では下着の上に数枚の衣服を重ね着する。多くの古代の文明ではこのような下着が唯一の衣服であり、古代エジプトの王、ツタンカーメンは145枚の褌と共に埋葬された。現在でも、アジアやアフリカ、それにインドなどの様々な社会でこのような簡素な下着が使用されている。
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

古代社会では、男性だけでなく女性もこのような下着を着用していた。古代ギリシアと古代ローマ帝国では、ローブのように胸から垂らした布により下着を隠し、落ちないようにピンや金具で支えていたとされる。また多くのローマ帝国の人々は尻と股を隠す現在のショーツに良く似た下着を着用していた。

中世・ルネサンス [編集]
中世ヨーロッパでは、毛や麻などの目の荒い織物から、柔らかい綿などの平織りの素材で作られるようになり、またゆったりとした衣服のデザインが流行した。腰と太ももで紐で固定するブライズ(braies)と呼ばれる薄手の素材のズボンが着用されていた。豊かな者はチャスズ(chausses)という足を覆う下着を着用していた。ルネッサンス期に入ると、チャスズはより体に密着するタイツのようなものになり、ブライズは徐々に短く、小さくなっていった。しかし、このどちらも他の服で覆う事はなかったため、厳密には下着のうちに含めるべきではないかもしれない。

ブライズの前面には、ボタンや紐で留められる窓があり、脱がずにここを通して男性は排泄を行うようになっていた。この窓は徐々に男性の魅力を増すため装飾され、コッドピース(codpiece)と呼ばれるようになる。イギリスのヘンリー8世は、局部を際立たせるために詰め物を入れることを考案したとされており、16世紀末までこのアンバランスな流行は終焉することはなかった。

現在、シャツと呼ばれている前ボタンで身につけられる男性用の上衣は中世からルネッサンス期にかけて考案されたが、当初は下着であった。膝まで丈がありズボンの中に入れ込み、下履きを兼ね着用した。ワイシャツの裾ラインがカーブしているのはその名残である。鎧の下に着用されていたダブレットもこの時期にファッションとして確立され、やはり下着として使われている。

中世の女性は体に密着するアンダードレスとブライズのような下着を着用している。時には、シフト(shift)と呼ばれる綿製の下着をアンダードレスの下に身につけることもあったが、後の時代になるまで一般的ではなかった。

ルネサンス期の女性のスカートはふっくらと傘のように広がっているものが流行であり、ドレスの下にファーティンゲール(farthingale)というスカートを支えるフレーム枠付きの下着を身につけている。16世紀の終わりには、スカートのボリュームは女性の体の倍以上も広がり、歩道の通行も困難になる。

中世ヨーロッパで、十字軍に参加した夫の不在時に女性の身を守るため、下着として貞操帯が開発されたとされているが、事実かどうか定かではない。多くの貞操帯は非実用的なほど複雑であったり、重すぎたりしており、歴史研究家の間でもその実際の用途に懐疑的な見方がある。

2009年03月11日

バージニア大学

バージニア大学(英語: University of Virginia、通称UVA)は、アメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビルに本部を置くアメリカ合衆国の州立大学である。1819年に設置された。

トーマス・ジェファーソンのサイン合衆国建国の父であり、独立宣言の起草者で、また第3代大統領でもあるトーマス・ジェファーソンによって創立された。ジェファーソンは生前自分の墓に「バージニア大学の父」という言葉を自分の3つの功績のひとつとして刻むことを頼むほど大学を誇りにしていた。ジェファーソンの伝統を受け継ぐバージニア大学は現在、アメリカで最高の高等教育機関の一つとして有名である。

1987年にはモンティチェロとあわせて『シャーロッツビルのモンティチェロとバージニア大学』として世界遺産に登録された。
1819年に創立されたが、 最初の学生が入学したのは1825年の3月であった。ジェファーソンは翌年亡くなるまで近くの自宅モンティッチェロで日曜日に教授と学生のために夕食会を開いた。その学生の中にはエドガー・アラン・ポーもいた。
シンジケ ビシー リング 毬つき パイラ ハート ピーフォ プロフ たらのき ドロー サバラン かっぽう レッドベ カード シップ バーディ デシジョン たらのき キャスク レザー ギブアン デコーダ トップ パパイヤ バイオレ オロジー テルミン テンレポ カクタス モスク もくず ミシンポ ワンコイン フォルシェ ブルガリア トロント ルーメン タウン オーソス シライド おにしま レーサコテ ファイン パワー バカロ ショーツ メニュー ヤングリ マイカー ふとう

バージニア大学はトーマス・ジェファーソン以外にも大統領を含む多くの政治家達により作られ、また同時に輩出してきた。1826年、第四代大統領ジェームズ・マディスンが大学の学長となり、同じとき、第五代大統領ジェームズ・モンローは大学の評議会のメンバーであり、また学内に家も建てていた。 第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンはバージニア大学のロー・スクールに通い、大統領候補で暗殺されたロバート・ケネディとその弟テッド・ケネディも同じロースクールを卒業した。その他に3人の合衆国最高裁判所裁判官、2人の軍医総監、 下院議長、上院多数党院内総務、国務長官、国防長官、エネルギー長官、運輸長官、財務長官、海軍長官、そして欧州連合と北大西洋条約機構の事務総長などを輩出している。

パブリック・アイビーとはバージニア大学を表すためにピューリッツァー賞受賞者でノーベル賞受賞者でもあるウィリアム・フォークナーによって作られた言葉である。アイビー・リーグがまだ北東部でつくられはじめたばかりの時期であった。当時バージニア大学は学部の一部をコーネル大学のように私立化し、アイビー・リーグに入ることを検討していた。フォークナーはのちに大学での住み込み作家として1962年に死ぬまでオフィスを開いていた。

1950年まで白人のみが、また1970年まで男子のみしか入学が許されなかったが、現在バージニア大学は非常に人種多様な大学となっている。2008年卒業予定の入学生の割合は黒人が10%、アジア系が14%, ヒスパニック系が5%, その他が5%である。海外からの学生も5%いる。自分自身を白人だと答える生徒の割合は3分の2以下になっている。

2004年、バージニア大学は公立の大学としてアメリカではじめて個人からの寄付金の合計が大学のある州からの助成金を上回った。現在、バージニア大学とバージニア工科大学、 ウィリアム・アンド・メアリー大学の3校は現在州議会が直面する予算削減にかかわらず自由な経営を目指すためのチャーター・イニシアティブに取り組んでいる。

ジェファーソンは政治家だけでなく、建築家としても偉大な功績を残しており、バージニア大学の建物もジェファーソンによりデザインされている。ジェファーソンは大学を「アカデミカル・ヴィレッジ (Academical Village)」と呼び、教師と学生が共同体として学びあう大学を理想とした。またバージニア大学では学内の敷地をキャンパスとは呼ばず、「グラウンズ (Grounds)」と呼ぶ

ジェファーソンのデザインは「Lawn」と呼ばれる大きな芝生のエリアを中心に学生および教授の住居や教室が囲む形となっている。中心となる建物はロタンダと呼ばれ、 Lawnの北側に位置している。ロタンダはローマのパンテオンをモデルに作られ、大きさはその約半分でデザインされている。Lawnとロタンダは多くの大学の建築に参考とされ、デューク大学の東キャンパスやマサチューセッツ工科大学のKillian Courtなどにも応用されている。ちなみにマサチューセッツ工科大学はバージニア大学の教授であったWilliam Barton Rogersによって設立された。ジェファーソンがデザインした創立当時の建物(Academical Village)についてはバージニア大学の教員であったFrank E. Grizzard, Jr.が詳しい本を書いている(http://etext.virginia.edu/jefferson/grizzard)。

ロタンダの両端からは芝生を囲うように東西に5個ずつ、計10個の“パビリオン”が建てられ、その間を学生の部屋がつなげている。それぞれの“パビリオン”異なった建築スタイルを持ち、その後ろには“serpentine walls”とよばれるジェファーソニアン建築独特の波型のレンガ壁によって囲まれた“Garden”がある。現在、バージニア大学はジェファーソンの自宅モンティッチェロとともにユネスコの世界遺産に登録されている。アメリカで登録されている世界遺産の建築は他に自由の女神など3点しかなく、非常に価値の高いものである。

1851年から、大学の成長に伴うスペースの不足を補うためロタンダは増築されたが、1895年10月27日、増築部分から火災が発生し、火災からロタンダを守るために教授William "Reddy" Echolsは約45kgのダイナマイトを投げ、ロタンダを増築部分から切り離そうと試みたが、逆にそのダイナマイトによってロタンダそのものも焼失してしまった。大学は当時有名な建築家であったスタンフォード・ホワイトにロタンダの再建を依頼した。ホワイトは増築部分は再建せず、代わりにLawnの南側に新しく3つの建物を建設した。またロタンダの内装もオリジナルの3階建てではなく2階建てとした。

アメリカ合衆国独立200周年に合わせ1976年、ロタンダはジェファーソンのオリジナルのデザインに修復された。元通り3階建てに戻されたロタンダはジェファーソンの誕生日4月13日に再び開放された。200周年記念を祝うためにアメリカを訪れていたイギリスのエリザベス女王はLawnを散歩し、ロタンダのDome Roomで昼食をとった。

1994年には今上天皇皇后が訪れ、1998年にはダライ・ラマ14世とデズモンド・ムピロ・ツツが大学によるノーベル賞受賞者のための式典に参加した。

現在ロタンダのDome Roomは学位論文の発表を行う場でもあり、またロタンダの階段ではアカペラのコンサートなど様々な行事も開催される。

2009年02月22日

チェロキー

チェロキー (チェロキー語: ????? ah-ni-yv-wi-ya。英語: Cherokee) はアメリカ州の先住民族。2000年の総人口は約32万人。 16世紀、ヨーロッパ人が入植しはじめた頃には、北米大陸の南東部に住んでいた。 文明化五部族 (白人の文明を受け入れ、白人社会の仕組み等を取り入れようとした、チェロキー、チカソー、クリーク、チョクトー、セミノール) の一つでもある。現在、最大の居留地チェロキー・ネイション(人口約25万人)はオクラホマ州南東部オザーク高原にあり、ターレクァー(en)を本部とする
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

チェロキー語で、チェロキー族を指す言葉は「これらはすべての人間である」を意味するアニユァウィヨァ (?????) である。英語の「Cherokee」の語源はチョクトー族が交易に用いた単語で、「山(または洞窟)に住むもの」を意味する「Cha-La-Kee」、またはクリーク族の言葉で「判り難い言葉を話す人たち」の意とされる。

18世紀のチェロキー族は、イギリスやアメリカとの間に、自分達の土地を守るための戦いの連続であった(チカマウガ戦争を参照)。1794年にアメリカ合衆国との間に休戦条約を結んだ後は、文明化の道を歩んだ。

1830年代、ジョージア州で起きたゴールドラッシュによりチェロキーはミシシッピ川の西のインディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住を余儀なくされる。8千人近い犠牲を出したその移住は涙の旅路と呼ばれている。ノースカロライナ州西部のチェロキー族の一部は、白人の助けを借り、また山深く隠れて強制移住を免れ、現在の東部チェロキー族(en)(人口約1万人)の祖となった。チェロキー族がいなくなったジョージア州など南部の広大な土地は、後に一大綿花産地に変貌する。

チェロキーの血を引く著名人
アーサ・キット(歌手) - 父方白人、母方チェロキーと黒人の混血
ウェス・ストゥーディ(俳優)- チェロキー出身
ウェイン・ニュートン(歌手) - チェロキー、アイルランド、ドイツなどの混血
エルヴィス・プレスリー(歌手) - チェロキー、ウェールズ、イングランド、スコットランド、オランダ、フランス、アイルランド、ドイツ、ユダヤなどの混血
キム・ベイシンガー(女優) - チェロキー、スウェーデン、ドイツの混血
ケヴィン・コスナー(俳優) - チェロキー、ドイツ、アイルランドの混血
サリ・リチャードソン(女優)- 母方黒人とチェロキーの混血、父方アイルランドとイタリアの混血
ジェームス・ブラウン(歌手) - チェロキーと黒人の混血
シェール(歌手、女優) - 父方アルメニア人、母方混血チェロキー
ジミ・ヘンドリックス(ギタリスト、歌手) - 黒人と白人とチェロキー
ティナ・ターナー(歌手) - チェロキーと黒人の混血
トニー・ジョー・ホワイト(歌手) - チェロキーと白人の混血
バート・レイノルズ(俳優) - チェロキー、アイルランド、イタリアの混血
ロニー・スペクター(歌手、ロネッツ) - 父方白人、母方チェロキーと黒人の混血
ロバート・ラウシェンバーグ(画家)- ドイツ系とチェロキーの混血
ジョニー・デップ(俳優)- 母方の曾祖母がチェロキー、他にドイツ、アイルランド等
ヴァル・キルマー(俳優)- 父方の曾祖母がチェロキー、他にドイツ、スコットランド、アイルランド、セファルディム、スウェーデン、モンゴル等
ルー・ダイアモンド・フィリップス(俳優)- フィリピン、中国、ハワイ、スペイン、アイルランド、チェロキーの混血
リタ・クーリッジ(歌手)- チェロキー、スコットランドの混血
マギボン(ネットアイドル)- チェロキー、ドイツ系の混血

2009年02月06日

町田忠治

町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年11月12日)は、明治から昭和期の政治家。衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。
むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ

出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父平治と母シン子によって育てられた。1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり家督を継いだ。学齢に達して、初め近くの塾で和漢学を学び、学制施行後は西郭学校(現保戸野小学校)に入学したが、間もなく太平学校(秋田師範学校を経て、現秋田大学)の附属小学校に転校した。1876年(明治9年)には太平小学校の中学科が名称変更になった変則中学科に進学した。中学科は間もなく中学師範予備科(秋田中学を経て、現秋田県立秋田高等学校)と改称され、1880年(明治13年)に卒業した。町田の秀才ぶりは「保戸野の神童」と言われるほどで、手形の井上広居、楢山の田中隆三とともに有名だった。

大学進学
卒業後、県費留学生として東京大学の前身である大学予備門に入学した。向学心旺盛で大学では法律と経済を専門に学んだが、東京の風土と生活が体になじまず、やがて脚気を患い病気療養のため一時学業を中断し帰郷した。なお同級の親友としては元外務大臣内田康哉がいる。1884年(明治17年)に本科から専科に転学し、再び県費留学生に選ばれ、1887年(明治20年)に帝国大学法科専科を卒業した。

記者生活
大学の恩師金子堅太郎の勧めで、法制局に勤務するものの1年で退官し、1888年(明治21年)に論説記者として「朝野新聞」に入社した。これは犬養毅の手引きによるものだったが、犬養・尾崎行雄らとともに論陣を張った。藩閥政府の弾圧によって同新聞の経営が困難となり、1891年(明治24年)11月には尾?らとともに大隈重信の「郵便報知新聞」に移り、犬養・尾?が国会議員となると実質上経営の実権者となった。また、財政学を勉強してイタリアの碩学コッサの「財政学」を翻訳して著し、早稲田専門学校では教科書用に採択した。

外遊の成果
1893年(明治26年)5月に横浜からアメリカ経由でイギリスに外遊した。ほぼ1年間イギリスの政治・財政・経済の知識を吸収して帰国した。間もなく郵便報知新聞を退社し、ロンドン滞在中に経済雑誌「ロンドン・エコノミスト」がイギリス経済界に大きな指導的地位にあるのを見て日本での必要性を痛感し、1895年(明治28年)11月に「東洋経済新報」を創刊した。経営が軌道に乗った翌年12月には友人である天野為之に譲り、1896年(明治30年)には日本銀行に調査役として入った。

財界進出
1898年(明治31年)1月に日銀総裁岩崎弥之助の特別使命を帯びて、大阪支店監査役に転じた。特命の内容は、日本銀行の官僚的な体質を改め、大阪の経済人と腰を低くして接するようにという趣旨のものであった。翌年3月の大阪支店退任後、山口財閥の中心企業であった山口銀行(後の三和銀行)の総理事就任要請を受け、引き続き大阪に留まることになった。虚弱体質だった銀行の体質改善・経営刷新を断行して山口銀行再建に乗り出し、10年後には拡大発展させ大阪財界の指導的地位に立つまでに成長させた。1909年(明治42年)5月に慶應義塾を卒業して成人となった四代目当主吉郎兵衛を伴って半年間欧米に外遊し、翌年山口家を退いた。

政界進出
1912年(明治45年)5月15日実施の第11回衆議院議員総選挙に秋田県郡部区から立候補して最高点で当選し、政治家としてスタートを切った。1914年(大正3年)に第2次大隈内閣の農商務省参政官に異例の大抜擢され、米価問題に取り組み、その調節や施設につとめた。所属政党は立憲国民党→立憲同志会(1913年(大正2年)2月)→憲政会(1916年(大正5年)10月)と移り、健全な野党憲政会の有力な党員として、苦節10年修練時代に入った。1919年(大正8年)以降はたびたび憲政会総務を務め、一方で1919年から1926年まで報知新聞社社長も兼任した。

大臣と総裁就任
1920年(大正9年)5月の総選挙で一度落選したものの、返り咲きを果たした1924年(大正13年)10月に加藤高明内閣の衆議院予算委員長として活躍した。大正末期には憲政会の筆頭総務の地位に就き、1926年(大正15年)6月には若槻内閣の農林大臣として初入閣を果たした。翌年6月に憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成してその総務に就任した。さらに1929年(昭和4年)7月に浜口内閣で再び農林大臣に親任され、第二次若槻内閣でも引き続き再任された。農相としては、農村の負債整理や現金収入の途を講じて疲弊の苦境を緩和し、同時に農村開発に尽力したことと米価の極端な変動を防止する米価政策を立てて当時の与野党ともに賛成したという政治史上画期的な業績を残している。1934年(昭和9年)7月の岡田内閣成立とともに懇願されて相談役として商工大臣に親任され、中小企業援助のため中央金庫の設立という大仕事を成し遂げた。さらに同年10月に重臣若槻禮次郎の民政党総裁辞任に伴い、その後任に推されたもののすぐには就かず民政党総務会長として総裁代行を務めた。政局の推移と熱烈なる党を挙げての懇望にほだされて、ついに1935年(昭和10年)1月20日に第3代民政党総裁に就任した。翌年2月実施の総選挙で民政党は飛躍的大勝をおさめ立憲政友会に代わって第一党となったが、その直後に二・二六事件が発生し暗殺された高橋是清の後任として大蔵大臣を兼任した。その後、第一次近衛内閣、平沼内閣、第二次近衛内閣の内閣参議、小磯内閣の国務大臣を歴任した。

民政党解党と敗戦
五・一五事件以降、憲政の常道は崩れ軍国主義・軍閥政治が広がり始め、町田の首相への道はついに開かれることはなかった。近衛新体制運動の展開に伴い、民政党は最後まで解党に抵抗したものの1940年(昭和15年)8月15日に解党を余儀なくされた。近衛の側近風見章は原田熊雄に対して、「町田氏ノ任務ハ民政党ヲ解消セシムルダケガ役割ニシテソレ以上ノ役割ヲ買ワントスルガゴトキハ身ノ程ヲ知ラズト云ワザルヲ得ず。民政党ノ解党ト同時ニ民政党今日マデノダラシ無カリシ党情ノ責任ヲ一身ニ背負ヒ隠退シテコソ公人ノ責任ヲ果タスモノト云ウベシ。コノ点間違イアルベカラズ」(「風見章日記」1940年5月29日付)と述べて、党崩壊を阻止しようとする町田の奔走ぶりを嘲笑した。翌年に翼賛議員同盟顧問、1942年(昭和17年)翼賛政治会顧問、1944年(昭和19年)大日本政治会顧問に就任した。町田には男爵叙任や枢密院副議長任命、阿部内閣および米内内閣で入閣をそれぞれ奨められたが、一代議士として国家のために働く信念を押し通した。太平洋戦争中には度々議会の壇上から国民の気力に激励を与え奮起を促した。敗戦後の1945年(昭和20年)9月5日、第88臨時議会に提出された「召詔必謹決議案」の趣旨説明で登壇し、「明治以来の偉業のむなしきを嘆き、日本の再建は文化の発展にあることを明らかにし、国民は一致国体を維持し、前途に微光を望んで新生日本の建設に全智全能を発揮するであろう」と言々血を吐き、声涙下る歴史的大演説をなして国民を粛然たらしめた。

最晩年
解消されていた政党復活に伴い、1945年11月に大日本政治会を母体として日本進歩党を結成しその総裁に就任した。しかし、翌年1月にGHQの公職追放令によって総裁の地位を追われ政界を引退した。同年夏頃から急速に老衰が目立ち始め、10月末に牛込の第一国立病院に入院し、わずか二週間後の11月12日午前4時38分、84年の生涯を閉じた。戒名は「憲忠殿衆誉無涯幾堂大居士」。葬儀は友人代表の幣原喜重郎が葬儀委員長を務め、同15日小石川護国寺で盛大に執り行われた。東京都小石川の護国寺と秋田市誓願寺に墓がある。

エピソード
愛称の「ノンキナトウサン」は報知新聞に連載されていた麻生豊の四コマ漫画『ノンキナトウサン(暢気な父さん)』の主人公に似ていたことから付いた。
人に会うたび毎に「近日中に飯でも食おう」と声をかけるのを常としたが、実際に食事に行くことは余りなかった。これが知られて「ノントウのキンメシ」などと言われるようになった。「ノントウ」は彼の愛称「ノンキナトウサン」の、「キンメシ」は「近日中に飯でも……」の略である。

2009年01月22日

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にソビエト連邦軍の満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)侵攻によって生じた日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなどに抑留し、強制労働に使役したことを指す。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ会談に基づくものであった。

樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

満州でも8月17日に派遣された皇族が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥は8月19日に停戦交渉に入って[1]、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことは少なかった。日本軍の崩壊した後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。

占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除され[2]、9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本(あるいは解放されたであろう祖国)に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は57万名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には200万人以上とも言われる。

収容所での生活
帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていた。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、建国当初から行われていた。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていた。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパロシアなどにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[4](犠牲者数に関しては後述)。

一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。

日本側の対応
当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという[5]。 左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。
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帰国
1947年(昭和22)から日ソが国交回復する1956年(昭和31)にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。しかし様々な事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地人女性(または男性)と恋仲になった、など)で帰国をせずにソ連に残留して帰化した人、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した人までいる。

一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による1950年(昭和25)からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている[6]。しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に彼等を監視下においた。

冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。

抑留理由
ソビエト連邦の独裁的指導者ヨシフ・スターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない。」というものであったが、日本占領政策にソ連の影響力を強めようとする策略だったと考えられる[要出典]。しかし、トルーマンはこれを一蹴したため、「その代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、この理由はソ連の捏造の可能性が高いという説もある(国際政治学者瀧澤一郎の見解)。

犠牲者数
従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証ーシベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もある[要出典]。

補償問題
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰ればその捕虜の所属国が支払うことになっている。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。

シベリア抑留に関連する作品
『岸壁の母』
『極光のかげに―シベリア俘虜記』高杉一郎・岩波文庫 ISBN 4003318315
『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』内村剛介・講談社 ISBN 4061982605
『プリンス近衛殺人事件』V.A.アルハンゲリスキー・新潮社 ISBN 410540301X
『収容所から来た遺書』辺見じゅん・文芸春秋 ISBN 4167342030
『シベリア抑留1450日』山下静夫・デジプロ ISBN 9784490206135
『ミュージカル異国の丘』劇団四季
『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』滝沢聖峰・大日本絵画 ISBN:4-499-22647-3
『遥かなる約束』 2006年 フジテレビ 阿部寛・黒木瞳主演

2009年01月15日

オーソン・ウェルズ


ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ
オーソン・ウェルズ(George Orson Welles, 1915年5月6日 - 1985年10月10日)はハリウッドを代表する映画監督、脚本家、俳優である。

オーソン・ウェルズは1915年にウィスコンシン州ケノーシャで生まれた。子供時代の彼は詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児であったが、傍若無人な性格で周りとの人間関係に問題があった。母は彼が9歳の時に亡くなり、父は発明に没頭するアルコール中毒の奇人で、祖母は神経質でオカルトと魔術に耽溺しておりウェルズとは嫌いあう仲であった。

父は彼をイリノイ州ウッドストックにある比較的自由な校風のトッド校に通わせたが、ここでウェルズは最初の演劇を制作し俳優として出演した。彼は登校早々に怪談で同級生を怖がらせ、手品やほら話を披露した。肥満児であったためいじめを受けると、トイレに駆け込んで赤いペンキを顔に塗り、大怪我になった演技をして相手を狼狽させ、以後誰も彼をいじめようとはしなくなった。ハロウィンでは学校を恐怖に陥れクリスマスにはキリスト受難劇やシェークスピアの劇を自ら演じた。この学校で彼は校長で義理の父親になったロジャー・ヒルの指導を受け、また神学者・哲学者チャールズ・ハートショーンの妻だった歌手ドロシー・ハートショーンの講義を受けた。

演劇人の時代
1931年、彼は16歳でアイルランドのダブリンにある有名なゲート劇場で脇役として舞台デビューを果たした。1934年にはアメリカに戻ってラジオドラマのディレクター・俳優となっており、後にマーキュリー劇場で共演する俳優たちと仕事をした。この年、彼は女優で社交界の名士のヴァージニア・ニコルソンと結婚し、また『The Hearts of Age』という短編映画の共同監督となりニコルソンと共演している。

1936年、世界恐慌後の大不況が続く中、アメリカ政府による演劇人救済と大衆への演劇供給を目的としたプロジェクト、連邦劇場計画(FTP)が始まった。ウェルズはFTP責任者たちから注目され、わずか21歳でニューヨーク市ハーレム地区でのアフリカ系アメリカ人の俳優・スタッフたちとの演劇制作事業に、演出家として赴任した。彼の妻の提案で、彼は敬愛するシェークスピアの『マクベス』を、ただし舞台をハイチの19世紀初頭の圧政者、アンリ・クリストフの王宮に移してプロデュースすることにした。劇は批評家や口さがない人々の関心を惹きつけ多くの中傷を受けたが、公演が始まると大ヒットとなった。

『マクベス』成功後、彼は『フォースタス博士』などの舞台を制作した。1937年、ウェルズは労働者の戦いを描くミュージカル、『ゆりかごは揺れる(The Cradle Will Rock)』の制作と演出を手がけたが、連邦劇場計画は内容を恐れて予算の制約を理由に制作を中止させ、俳優たちは組合から舞台に立つことを禁じられ、本稽古(ドレス・リハーサル)の初日に劇場を閉鎖してしまった。この後の、ウェルズと共同制作者のジョン・ハウスマンのとっさの処置はいまや伝説となっている。彼らは公演開始時間の直前まで劇場の前で待ち、チケットを持ってやってきた観客たちに、あらかじめ押さえておいた別の劇場に移動するようアナウンスした。20ブロック先の別の劇場までウェルズとスタッフ、俳優、観客たちは大挙して行進した。舞台にはセットもオーケストラも用意できなかったため、脚本・作曲を手がけたマーク・ブリッツステインが一人でピアノの前に座っていた。ウェルズたちは「舞台で演じてはならない」という組合の指令を逆手に取り、俳優や演奏者を観客席に座らせてブリッツステインのピアノに合わせて次々立ち上がらせて、劇を観客席のただなかで上演した。このミュージカルはこうした印象的な演出の評判でヒットした。